realize
開いた両手を、緩く握り、また開く。同じ動作を、ゆっくりと何度も繰り返してどれくらいか。
「何やってんだ?」
軋む床の音と、続けて自分の名を呼ぶ声に、レオナルドは顔を上げた。
夜の闇に薄布を透して朧げに射す月明かり、はっきりとは見えないが、
興味と心配がない交ぜになった灰青の瞳に、何も、と応える。
ただ、
「……よく逃げられたよな、って思って」
ああ、といつもより低めの声が返ってくる。それを聞いて、
レオナルドはまた開いた手をそっと握る。
帝国軍の駐屯兵達から逃れる事数度、半ば迷い込むように到着した王都。だが、
駐屯兵の数はそれまでいた街とは段違いに多く、見つかるまでそう時間は掛からなかった。
市場や大通りで人ごみに紛れて追っ手を撒こうにも、人が多過ぎてこちらの動きすらままならない。
さすが王都、と感心している余裕などない。
土地勘もないのでいざと言うときの抜け道も見つけられないまま、
あっという間に路地の外れに追い詰められた。捕まる、ではなく、殺される、と本気で思った。
そこを助けてくれたのは、知らない大人。長槍を振りかざす兵が呻き声をあげて身体を傾けた隙に、
レオナルドの手を引いて駆け出した。その駐屯兵がどうなったかはわからない。振り向いても、
エディが着いて来ていることを確認するだけで精一杯だった。ただ、
前を駆ける彼の持つ戦斧が血に塗れていることで想像はついた。
「助かったよなー。あの時は本気でヤバいって思ったもんな。結構ツイてるよなおれ達って、
本当」
今度は普段通りの明るく元気な声に、レオナルドは苦笑しながら、唇の前に人差し指を立てた。
慌てて両手で口を覆う親友の動作に思わず吹き出し、今度はこちらが口を覆う羽目となる。
その一連に、お互い声をひそめて笑った。
笑いが収まった頃に、二人はそれぞれに自分達の居場所を見渡した。寝台がふたつと間に脇棚、
衣装箪笥らしい扉と引出しのついた棚。窓に掛かるカーテンは薄い。隣室に続く出入口に扉はない。
連れの二人に言わせると、平均よりも若干下がるが一般的水準の範疇ではあるらしい。
逃げ延びて、忍び込んだ民家には家財はそっくり残っていたが、人のいる気配はなかった。
床や家具には薄くほこりが被り、水瓶は濁り、炊事場隅の野菜は傷みが見られた。
住人はどこに行ったのか。恐らくは――
………………
駄目だ、とレオナルドは先を考えることを意図的に止めた。考えればそれは、
自分達の行く末に――当然、悪い方向に――まで及ぶだろう。すぐ悲観的な思考に陥るのは、
彼の悪い癖だ。そう、最初に指摘したのは兄だった。逆に兄の癖なのだろう、
困ったように眉根を寄せた笑顔を覚えている。その後、士官学校の教官も同じことを言っていた。
先の戦争で部隊長を務めたという老教官は、口調も指導も厳しかったが、嫌いではなかった。
だが、今は、二人とも、
(だから、駄目だって)
「……静かだな」
考えを断ち切る為のレオナルドの呼び掛けにエディはしかし、ただ頷くだけで応えた。
静かにしようと努力しているのか、珍しく話をする気分ではないのか、それともないのは気力の方か。
確かに、座り込んだ床から立ち上がることが億劫なほど、身体は疲弊していた。
二人を助けた男は、今はいない。辺りを見てくる、と少し前に出て行った。
陽が落ちているうちは大丈夫だろうが念の為にだと、その間ゆっくり休んでおけと言われたが、
とても寝付ける状態ではない。休養を求める身体とは逆に、
必要以上に高揚した精神が瞼を閉じる邪魔をする。
――本当に、よく逃げられたな。
レオナルドにとってこれは、初めての経験ではない。
例えば、彼の通う士官学校に駐屯兵が来た日。捕らえられる友人や教官達を見捨てて逃げた、
幾人かの仲間と、倉庫らしい建物の中で息を潜めて時間の過ぎるのを待った夜。或いは、
その仲間達が次々捕らえられ、またははぐれて一人ぼっちになった頃に、駐屯兵に追われた日。
あの時も追い詰められてどうしようもなくなったところを、助けられた。
ここのような空き家ではなく納屋みたいな場所だったが、今みたいに、エディと一緒に過ごした。
ああ、そうか。
――結構ツイてるよなおれ達って。
先程の親友の言葉を、レオナルドは思い出す。
捕らえられた彼の仲間達は皆、収容所に送られているはずだ。
そこがどういう場所かは漠然としか想像できないが、
村や街で帝国に苦しめられている人達よりと同じ、いや、それ以上に辛い目にはあっているだろう。
生命を落とした者も一人や二人では済まないくらいにいるかも知れない。
「レオ?!」
先程とはうって変わった大声を上げる親友に、静かに、と、また指を立てて示そうとしたが、
上げかけた手の甲に何かが落ちた。
「どっか痛いのか?!」
腕を掴まれる。何だ、動けるじゃないか。さっきはくたびれた感じだったのに、と思いながら、
ふと開いた手のひらで受け止めた。
なみだ。
涙だ。
ぽつり、ぽつりと濡れていく手のひらを暫く眺め、それをぎゅっと握ると、零れる涙を拭った。
「……痛い、からじゃない」
辛いからでも苦しいからでも、悲しいからでもない。
口許が緩むのを感じながら、レオナルドは親友に顔を向けた。
心配と戸惑いがほとんどを占める灰青色に、今の自分はどう見えているのだろうか。
きっと奇妙に映るだろうが、涙も、微笑む事も止められない。
「エディの言う通りだ」
「何が、」
他に何をするわけでもない、ただ逃げるだけの日々。ネヴァサに来たのも、
王都ならば何か変わるのではないかと思ったから。王は不在で、政はベグニオンが握っている。
それでも、王都、というものに期待した。しただけで自ら何かを成す為ではない。
本当にただそれだけだが。
「僕達は運が好い」
どれだけの危機に追い詰められながら、ギリギリでも躱してきた。細かい怪我は幾らかしたが、
動けなくなることはない。疲労はしても、休めばまた自由にどこへでもいける。そして何より、
一緒に走ってくれる友人がいる。一人では辛いだけだった逃亡生活も、
二人でならば気分だけでも楽になれる。更に、今日からは三人になった。
自分達のような子供ではない。二人を心配し、支えてくれる大人だ。
新しく増えた彼は何と言ったか。駐屯軍の妨害をする、確かそのようなことを言っていた。
妨害をしたところで、何が変わるのかわからない。今より悪い方向に向かう可能性も多分にある。
今度こそ、捕まるかも知れない。それでも、何かを期待してしまうのは、
楽観主義の嫌いがある親友の性格が移ったか。レオナルドは、
その微笑みに若干の自嘲を織り混ぜて、
「……本当に、運が好い」
繰り返して呟かれる言葉に、エディは戸惑い気味に、
しかし嬉しげにも見える色で瞳を揺らした。
Update:2009/08/29