ShortStory

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monochrome

 静謐、という言葉をふと思いついた。
 大気は凛と張り、見上げた夜空には今にも降り出しそうな星々が満ちている。 吐いた息が白く目の前を漂い、消えた。レオナルドは思わず、外套をかき合わせる。
 ベグニオン帝国北部、 デイン王国との国境となる山脈の裾に広がる森林と平野の入り交じった中にぽつりとある街に彼はいた。 帝都シエネへ向かう途中、休息を求めて立ち寄ったこの街の名を彼は知らない。 このような事態にならなければ、恐らく来ることもなかっただろう。彼の生まれた家も、 少し前まで暮らしていた街もそれほど、遠い。
 国境を越えた頃に降っていた雪は、 今はすっかり止むどころか空を厚く覆っていた雲すらほとんど消え去っていたが、 それが逆に底冷えを感じさせている。
 しかし、この冴え冴えとした空気は寒さだけの所為ではなく、 辺りの静けさもまた足下に積もる雪の所為ではないと彼は知っていた。いや、彼だけではなく。 今この街で休んでいる、或いは他の道を進んでいるであろう、彼と目的を共にする者達すべてが。 これは、――女神の裁きの始まりだと。
 それを止める為に、あれほど憎んでいたベグニオンの帝都を訪ねることになるとは、 反帝国活動をしていた頃は夢にも思わなかった。 見上げた空、森の向こうにも続く星々の並びは見慣れたそれとはまったく違っている。
 ――遠くに来ちゃったな。
 唇だけを動かし、レオナルドは呟いた。同時に、背後で扉が軋み、控えめに石段を打つ固い音が聞こえた。 続いて、低く密やかな声も。
「レオナルド」
 名を呼ばれ、やっぱり、と思いながらレオナルドは振り向いた。待っていた訳ではないが、 彼ならば気づくだろうとは思っていた。やはり来た、と目の前に現れた男に緩い笑みを向けた。
「ノイス」
「休めるときには無理してでも休んでおけ。ただでさえ強行軍なんだ。身体が持たないぞ」
「……うん。――エディはどうしてる?」
「とっくに夢の中だ」
「緊張感ないな。……時々そういうところが羨ましくなるけど」
「まぁ、場合にもよるがな。でもそういう神経の太さは少し見習った方がいいかもな」
 言って、レオナルドの額を小突いたノイスが、声を顰めて顔を寄せる。
「どうした。――また、眠れないのか」
 頬に触れた手のひらの温かさに甘えて目を伏せながら、レオナルドは密かに息を吐いた。 かつて、悪い夢――父や兄を失った時のこと――を見てひとりでは眠れないことがあった。 ノイスやエディに添い寝してもらった――エディは勝手にベッドに入り込んで来るのだが――ことなどは、 今思い返してもなかなか気恥ずかしい。二人ともからかわずに応じてくれたことが救いだろうか。 いつの間にか、夢自体を見ることもなくなっていたのだが。
「――そうじゃない」
 レオナルドは、緩く首を横に振った。
「そうじゃなくって、ただ、」
 独り言のように応え、再び空を仰ぐ。
「星が多いな、って、何となく」
 レオ、と名を呼び掛けたノイスが、溜息の後に、倣って星を眺めるように視線を上に向けた。 溜息には気付かない振りをしてレオナルドは視線を遠くに滑らせた。ところどころに斑を残しながら、 南へ行くほど密度を上げる光の群は感動を超えて、震えるほどの何かを感じさせる。
「この季節、ネヴァサではこんなにたくさん星は見えないよ。ううん、 一番たくさん見える夏だってこれほどじゃないよね」
「大銀河だな。見るにはちょうど今頃が一番良い時期だ。デイン南部、 ベグニオンとの国境近くが見える北限だから、北方のネヴァサでは無理だろう。もう少し南へ行けば、 空一面が大銀河ってのが味わえるんだが」
 のんびり星空を眺める余裕はないだろうな、とノイスは苦笑する。
「詳しいんだね」
「……昔は世界中、あちこちに行ったからな。デイン国内はもちろん、ベグニオンやクリミアにも。 さすがに、ラグズの国へは行かなかったが」
 ラグズ、という言葉にレオナルドの肩が微かに揺れた。
「レオ……」
「ノイス。僕はね、」
 空から目を離さずにレオナルドが言う。
「前ほどラグズが怖いとは思ってない。……あの爪や牙はやっぱりまだ恐ろしいけれど、 ラグズっていうだけで嫌ったり憎んだりする気はもうないんだ」
「……ああ」
「クリミアの人達も……ベグニオンの人達にだって、少なくとも今一緒に帝都へ向かっている人達には、 それほど悪い感情はない。僕達のやったことがやったことだから、 向こうから敵意を向けられるのは仕方ないけれど――そう思えるくらいには」
「……そうだな」
 ノイスの声が遠くから聞こえたような気がした。
「――僕の父と兄は、クリミアとデインの国境の辺りで死んだって聞いた。……三年前に」
「レオナルド、」
「戦争だったから、二人とも軍人だったから仕方ない。それはわかってるんだけど」
 寄宿舎で聞いた部隊壊滅の知らせ、それを伝えた教師の表情、同じ立場の友人達の嘆き。 ぼんやりとした記憶の中から甦る。続いて、相対するベグニオン軍、神使と親衛隊、 クリミアの女王と王宮騎士団、猛禽と獣のラグズ、それらを統べる傭兵団、 サザが憧れてやまないという強い瞳をしたそのリーダー。
「あの人達が――あの人達の中の誰かが、父さんと兄さんを殺したんだって、」
「レオナルド!」
 虚ろに呟く唇を、ノイスは自らの唇で塞いだ。数回、呼吸を継ぎながらの長い口づけの後、 柔らかく抱きしめてきたノイスの肩に頭を預けたレオナルドは、瞳だけで空を見上げて、
「――遠くに、来ちゃったな」
ぽつりと呟いた。
Update:2011/08/15
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