夕涼みに屋上へ出ると、先客を発見した。
「……何が、見える?」
遠くを見つめる彼の、背後から急に声をかけた。割には落ち着いた様子で彼は振向いた。
その表情にも驚いたところは無く、いつものままの、柔らかい微笑み。彼はアベルの問いに、
特に何も、と応えた。
「明るい内には、海まで見えたのですが」
夕日は既に地平線の彼方に落ち、その余韻すら殆ど残っていない。辺りに見えるのは、
暗く沈んだ丘と、黒い森の影ばかり。
「弓兵の視力はかなり良いらしいからな。てっきり我等が祖国でも見えるかと思ったのだが」
「視力の良いことは認めますが、それは無理ですよ、流石に。第一、」
遠過ぎますよ、と呟いた。傍目にその表情は変わっていない様に見られたが。
確かに、遠い。海路ならば東、陸路なら西に進路を取り、世界をおよそ半周する事になる。
こんなに遠い所までよく落ち延びることが出来た、そう思った。けれど、
近過ぎると意味が無いのだ。一帯は既にドルーアの手に落ちていた。
彼らに見つからないように隠れながら必要な力をつける。
その前に敵に捕われる事があってはならないのだ。いつか、祖国を取り戻す為に。
たん、た・たん。
長い様な短い様な、沈黙を打ち消すかの様に小さく響くその音は、
「無事に、家に帰れるオマジナイ、ですよ」
効果は保証できませんけれど。壁に寄り掛かり、彼はそう微笑んだ。
「アリティアの事、考えていたでしょう?」
心の中を読まれた様な彼の言葉にも驚いたが、その前に何と言った?
無事に、帰る?
『無事に帰り着けるおまじないですよ』
先程の自分の言葉が思い返される。
「……ああ、すみません。変でした、ね」
茫とした挙句の沈黙を、彼は違う意味にとったらしい。少し、照れるように俯いた。
違う、そうではなくて、
「それは一体誰から、」
「え? ……母、ですが。あの、幼い頃に。母の生まれた所に伝わっている様で」
彼は両親とも平民のはず。ならば、
「君の母上の生まれは?」
「アリティアです。生まれも育ちも」
そう言って、城下にほど近い村の名前を挙げた。それがどうかしましたか?
と問い掛けの言葉も忘れずに。
だが、その問いに答える事は無く、そうか、と独言ちた。
未だ自分達が出会わない頃、おそらく記憶にも残らない程幼い時に、
誰かからそれを教わったのかも知れない。王宮の使用人には、
平民出身のものもかなりいたから、きっと。
『無事に、帰れますように』
それは、記憶の底に残った、無意識下の願い、祈り。
いつかそこへ帰る為の。
「……アベルさん……?」
不意に、静かに笑い出したアベルを、ゴードンは心配そうに見ていた。
それにただ、何でもない、と応える事しか彼には出来なかった。
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