daylight
ふわり、と裾を煽る風に顔を挙げた。そのまま辺りを見回す。
潮の香りのする優しい懐かしい風は相変わらずだというのに。
――ここはまだ。
あれから3年近い年月が経とうとしている。しかし未だに、一帯の大地は黒いまま。
人の住んでいる気配も無い。焼け落ちた木々も建物も、何もかもが。
ざ、と靴裏で足下の土を掃いた。呆気無く崩れたそれは、焼かれてから思ったほどの時間は経っていない。
多くとも、数日。つい最近まで。そうして、それ以前にも何度も炎に炙られていた様だった。
風に乗って黒い土埃り――既に土ではないかも知れない――が舞う様を、軽く眉根を寄せて見送った。
「マルス様……」
心配そうな幼馴染みの声に振り向くと、笑顔を向ける。彼には誤魔化しの笑顔が効かない。
酷く無駄で、ある意味ではとてもやりにくい行為。それでも、笑って見せた。
如何にも『作った笑顔』となったのだろう、視線の先のマリクは案の定、微かながらも眉を顰めていた。
「大丈夫だよ」
もう一度軽く笑って、更に歩を進める。道とも何とも判別し難いそこを、
それでも慣れた様子で街外れの方に向かった。後ろから、もう一組の足音もついて来た。
建物(だった焼けた木や石等)の群れを抜けて暫く行った海岸沿い、
一段下がって岩場の蔭になった所に小さな船着場が見えた。やはり焼けた桟橋の残骸らしきものが2つ。
それを指で示しながら、マルスは話し始めた。
「ここから、タリスへ向かったんだ。あの船着場から」
「マルス様、」
さらり、と言い出すその言葉に、心配そうな声が重なる。
「小さな船が、3艘。それだけで逃げ出すのが、あの頃の僕達には精一杯だった」
海に視線を向けながら、見ているものは更に遠く。
城へ向かう路からは少し離れているが、アリティアでは一番大きな商業街として、栄えていた街。
所狭しと軒を連ねる店や屋台、マルスもこっそり城を抜け出して、遊びに来ていた。
城の地下にある抜け道が、この桟橋の近くに出る事を見つけたのはいつ頃だったろうか。
街の外れから中心部へと向かう最中の高揚感、徐々に大きくなる楽しいばかりの喧騒。中央広場には、
吟遊詩人や踊り娘、いろいろな芸人達が数日毎に集まり、得意の芸を披露していた。
そこへと至る大通り沿いにある果物屋の主人と、何故か話が合った事を覚えている。
アカネイアに嫁いだ娘の子供がマルスと同じくらいの歳だと聞いた。
それがあの日、あの夜。
姉姫を犠牲にしてまで抜け出した城は、燃えていた。地下道から、洞窟を通って外に出て。
湾に近い河口を挟んだこの場所で振り仰いでそれを見た。
ところどころから上がる黒い煙は夜の雲と混ざり合って余計に不穏さを醸し出す。
窓の隙から見える炎の揺らめき、それに合わせて後方の街も、また。
揺れる橙を映して、数人の人影が桟橋の袂に待っていた。
――これらの船を、お使いください。
船、というよりボートに近いそれを指し、待ち兼ねていた様に言ったのは、
恰幅の良いあの果物屋の主人。その表情は影になって見えないが、口調だけでも伝わってきた。
――せめて、王子には無事に逃げ延びていただかねば。
有事の時はそうする話にでもなっていたのだろう。簡単な礼で済ませて肩を押す伯に逆らった。
――でも、あなた達は……!
解っている。自分がここで無事に逃げて、生き延びねばならない事は。そうして、
総ての人を逃がす事ができない事は。解っているのだが。
むざむざと死ぬ事だけは、許されない。――許さない。王族貴族だろうが平民だろうがそれは同じく、
誰もが。
自分の力の無さ、不甲斐無さを改めて悔しく思い、唇を噛んだ。
握った拳が震えているのをはっきり感じた。
――王子様。
不意に掛けられた声に、はっ、とした。仰ぎ見た先には花売りの娘。明るく歌と踊りが上手くて、
祭りの時はよく皆の中心で踊っていた。つい最近、結婚が決まったと幸せそうに話していた。
傍らにいる青年が、おそらくその相手なのだろう。
――私達なら、大丈夫です。
遠くで揺れる炎に照らされた笑顔が、姉のそれと重なった。穏やかな優しい声も、その言葉も。
別れ際に見た、聞いた、姉姫とまるで同じで。
思い出してまた込み上げる想いを振り切る様に首を振った。それを別の意味に受け取った娘は、
マルスの手をそっと取って、顔を覗き込んだ。
――私達ならば、大丈夫ですから。王子は無事にここから逃れる事だけを考えてください。そうして、
いつの日にか、
握られた指に力が込められた。
――いつの日か絶対に、救けに来てくださいね。
その言葉に、思わず手を握り返した。
思ったより荒れ気味の感触はそれでも温かさと相俟って心地好さを感じさせた。それが一層。
――必ず……っ。
堪え切れなくなりそうな気持ちを精一杯押さえて更に、半分泣きそうな笑顔に誓うと、
その手は静かに放された。促す臣下に逆らう事はもうせずに、船に乗り込んだ。乗り込む際に、
振り向いて、もう一度。
――必ず、戻って来るから……っ。
逆光になって、皆の顔はよく見えなかったけれど、おそらく彼らは微笑っていたのだろう。きっと。
マルスはそれから、遠ざかる岸、そこに立つ人々をずっと、見つめていた。人影どころか、
島影すら見えなくなっても、更に。
あれから、2年。
ここまで辿り着くことは容易ではなかったけれど、それでも。
――戻って来たよ。
「…………救けに、来たよ」
「え?」
微かな呟きに、マリクは何か、と尋ねた。それにはただ、首を振るだけで答えて。
「辺境近くの森の中で、幾つかのテントやバラックを見つけたって、カチュアが言っていたんだ。人も、
結構な数いたって」
周囲の偵察を頼んだ天馬騎士は、その報告の際に付け加える様に言った。おそらく、
戦禍を逃れた民間人だろうと。
「この街の人達も、そこにいるのかな」
あの、花売りの娘は無事でいるだろうか。あの青年と一緒に暮らしているのだろうか。
果物屋の主人も、元気でいるだろうか。
「いる……でしょうね、きっと。ここや、近くの町や村の者達も」
「うん……」
あの時、既にカダインで魔道士として学んでいたマリクには、マルスの言葉の意味を知らない。
口にしたのはただの一般的見解。
もう一度、桟橋と海、そうして対岸の城を見つめた。
「あそこに戻るのももうすぐ、なんだね」
「ええ」
王国を復興させる、その足掛かりとして。
そうして。
――私達なら、大丈夫ですから。
――いつの日か絶対に、救けに来てくださいね。
――必ず。
約束の言葉。きちんと交わした訳ではないけれど。
お互い、絶対、果たされると信じて。
――還って、来たよ。
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